【アウステルリッツ】
戴冠式から1年後の1805年12月2日、チェコのアウステルリッツでナポレオン率いるフランス軍7万3000名がロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア皇帝フランツ2世の連合軍8万7000名を撃破しました。<獅子の跳躍>と呼ばれるナポレオンの異例な作戦によって、濃い朝霧がたちこめる中、連合軍先鋒体を右側から急襲し大勝利を治めました。ナポレオンの最も輝かしい戦いであり、この大勝で彼は凱旋門の建設を命じました。3国の皇帝が一堂に会したため「三帝会戦」とも言われます。
●表 面
朝靄の中、アウステルリッツに昇る太陽の光を浴び、大勝を治め栄光の頂点にいるナポレオンを描いています。その朝日の中心には、ナポレオンの紋章*にある鷲
(Imperial Eagle)。その鷲が両足で握っているのは天与の力である皇帝の権力を象徴するゼウスの雷(いかずち)です。上部にはフランス共和国の頭文字<RF>と発行年銘、下部周囲には<アウステルリッツの太陽>の文字を刻印。
●裏 面
オーストリア、ロシア連合軍が、プランツェン高地の攻防で、フランス近衛騎兵師団にあえなく撃退され、全滅するのを避けるために連合軍が南へ退却していく様を描いています。上部周囲には<自由、平等、博愛>の文字と額面を刻印。
■ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト) 年譜
| 1769年 8月15日 |
コルシカ島アジャクシオのイタリア下級貴族の家に生まれる。 |
| 1779年 |
ブリエンヌ陸軍幼年学校入学。 |
| 1789年 |
フランス革命に参加 急進派のジャコバン派支持の冊子を発表して逮捕される。 |
| 1795年 |
バンデミエールの反乱で王党派の鎮圧で活躍をして再起。 |
| 1799年 |
クーデターにより執政政府を樹立。自ら第一執政となる。 |
| 1802年 8月2日 |
終身執政の是非を問う国民投票で圧倒的多数で信任され専制政治の道を開く。 |
| 1804年 |
帝位につき、フランス革命の成果である「人民の自由、法の下の平等、私的所有権の絶対」を法的に確認する民法を制定。1807年に「ナポレオン法典」と改題される。 |
| 1805年 |
アウステルリッツでロシア皇帝アレクサンドル1世とオーストリア皇帝の連合軍を撃破。 |
| 1806年 |
凱旋門の着工を命じる。 |
| 1812年 |
ロシア遠征。ボロディノ会戦の勝利。(フランス軍13万とロシア軍12万の戦いで、このロシア遠征はトルストイ「戦争と平和」やチャイコフスキー作曲「序曲1812年」の作品となっている。)イギリスを除く全ヨーロッパをほぼ制圧。 |
| 1813年 |
ナポレオン支配に諸国が抵抗する戦争が開始。(解放戦争)ナポレオンはパリに敗走。 |
| 1814年 4月2日 |
フランス元老院はナポレオンの廃位を宣言。4月11日退位宣言にナポレオンが署名。 |
| 1814年 5月4日 |
エルバ島に流される。ルイ18世による王政が復活。 |
| 1815年 2月26日 |
密かにエルバ島を脱出し、1000人の兵士と共にカンヌに上陸、進撃を開始。 |
| 1815年3月20日 |
パリに戻り、再び皇帝位に就く |
| 1815年 6月18日 |
ワーテルローの戦いに敗れ、6月21日 パリに敗走、22日退位。10月15日 イギリス領セントヘレナ島へ流される。 |
| 1821年 5月 |
同島で死去。51才。 |
■フランス国立造幣局 (モネ・ド・パリ)
フランスの貨幣鋳造の歴史は、貨幣関係事業を統合したシャルルマーニュ大帝の時代、9世紀にさかのぼります。その後ルイ15世の提唱により、約6年の歳月をかけてセーヌ河畔にあるコンティ館に建設された造幣局が1775年に完成、1879年には現在のコイン・メダル庁が発足しました。
200年以上の歴史をもつモネ・ド・パリでは、鋳造、鍛造いずれも選りすぐりの技術者による手づくりで、メダルをはじめ、記念コイン、勲章、各種装身具などの製作を行っています。
その品質を保証するために、すべての記念コイン、メダルにモネ・ド・パリの識別マークと刻印工場長の識別マークが刻印されています。現在の刻印工場長(ユベール・ラリビエール/2003年7月1日?)のマークは、彼の名前にちなんでフレンチホルン(狩猟の守護聖人ユベールを象徴する狩猟ホルン)と波(ラリビエールは「川」の意)、そして彼の星座(双魚)から魚のシルエットを組み合わせたものです。