| 1770年 |
ボンにてルートヴィヒ・ファン・べートーヴェン生誕。(おそらくは)12月16日に誕生し、その翌日、教区教会である聖レミギウス教会にて洗礼を受ける。 |
| 1775年 |
最初の音楽のレッスンを父より受ける。 |
| 1778年 |
3月26日ケルンでピアニストとしてデビュー。 |
| 1781年 |
宮廷オルガニストのネーフェにピアノと作曲、さらにオルガンとバイオリンを習う。 |
| 1784年 |
オルガン奏者としてネーフェの代理を勤める。 |
| 1787年 |
ルートヴィッヒは初めてウィーンを訪問し、モーツアルトの前で演奏する。しかし母親が危篤となりボンへ戻らなければならなくなる。 |
| 1789年 |
父親が失職。ルートヴィッヒは弟たちの後見人になる。 |
| 1790年 |
ロンドンへ向かう途上のヨーゼフ・ハイドンがボンを訪問。 |
| 1792年 |
ロンドンを発ったハイドンがボンを経由してウィーンに戻る。ハイドンはべートーヴェンにレッスンを授けるとの意向を伝える。11月べートーヴェンはボンを離れウィーンに向かう。 |
| 1793年 |
べートーヴェンはウィーンにてカール・リヒノウスキー侯爵と知り合い、侯爵邸に止宿する。ハイドンとヨハン・シェンクよりレッスンを受ける。また翌年よりヨハン・G・アルブレヒツベルガーと
A・サリエリからもレッスンを受ける。 |
| 1795年 |
自作のピアノ協奏曲変ロ長調op19とともにウィーンにて公開の場へデビューする。 |
| 1796年 |
プラハ、ドレスデン、ベルリンを旅行。 |
| 1798年 |
難聴の最初の兆しが現れる。 |
| 1800年 |
べートーヴェンはホーフブルク劇場にて最初のコンサートを開く。 |
| 1802年 |
次第に進行する難聴の症状に苦悩し、鬱病となり、ついに『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためる。 |
| 1803年 |
ルドルフ大公(皇帝レオポルト2世の末子)がべートーヴェンの生徒となる。二人は友人となり、大公(後のオルミュッツ大司教)はべートーヴェンの重要なパトロンのひとりとなる。 |
| 1804年 |
交響曲第3番『エロイカ』完成。当初べートーヴェンはこの作品をナポレオン・ボナパルトに捧げるつもりであった。しかし12月にナポレオンが皇帝として戴冠したとの報せを聞くと、献辞からボナパルトの名前を消し去る。そしてこの曲はロプコヴィツ侯爵に捧げられた。 |
| 1805年 |
ロプコヴィツ侯爵邸にて交響曲第3番『エロイカ』のウィーン初演。11月20日にはべートーヴェンが作曲した唯一のオペラ、『フィデリオ』が初めてアンデアウィーン劇場で上演される。 |
| 1809年 |
べートーヴェンにカッセルから常任指揮者就任の要請がある。べートーヴェンがこの話を断るようにと、ルドルフ大公、ロプコヴィツ侯爵、そしてキンスキー侯爵が、年額4000グルテンの報酬を申し出る。 |
| 1815年 |
べートーヴェンはウィーンの名誉市民となる。 |
| 1816年 |
べートーヴェンは甥カールの後見人となる。この件を巡りカールの母はべートーヴェンを裁判所に訴える。(1818年)裁判は1820年に結審。べートーヴェンに有利な判決が下る。 |
| 1824年 |
ウィーンのケルントナートーア劇場にて交響曲第9番初演。このころべートーヴェンの耳は完全に聞こえない状態だったが、それでも自ら指揮を執ると強く主張した。 |
| 1826年 |
甥のカールは次第に面倒を起こしがちになり、扱いにくくなる。7月30日、カールは自殺を試みる。べートーヴェンはグナイクセンドルフに住む弟のヨハンの元にカールを送り届ける。べートーヴェン自身も病に倒れる。 |
| 1827年 |
3月24日べートーヴェンは終油の秘跡を受ける。臨終は26日。べートーヴェンの葬儀には3万人もの人々が葬列に加わった。悼辞は文豪フランツ・グリルパルツァーが読んだ。 |